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夏目漱石の直筆資料

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「漱石文庫」は、文豪・夏目漱石の自筆資料および旧蔵書からなるコレクションであり、漱石自身の肉筆による手帳や日記、ノート、試験問題、創作メモ、手紙などを多く含んでいます。

これらは漱石の人柄や、家族との関わり、創作における思考の過程などを知ることのできる貴重な資料です。

当館では、2019 年度から 2020 年度にかけて、クラウドファンディング事業「漱石の肉筆を後世へ!漱石文庫デジタルアーカイブプロジェクト」により、資金を調達し、夏目漱石の直筆資料のデジタル化を行いました。本展示は当事業によりデジタル化を行った資料の一部です。

学生時代

明治17年(1884)9月、漱石は東京大学予備門予科(明治19年4月、第一高等中学校に改称)に入学した。同級には、正岡常則(子規)、南方熊楠、山田武太郎(美妙)、芳賀矢一ら、後に俳人や学者、作家として活躍することになる人物らがいた。明治21年(1888)9月に第一高等中学校本科第一部(文科)に入学、明治23年(1890)9月には帝国大学文科大学英文科に入学した。

幾何学答案 Geometry 97点

キカガクトウアン Geometry 97テン

漱石は、大学予備門に入学した当初、 「勉強を軽蔑するのが自己の天職の如く心得」(「満韓ところどころ」)、 成績は 「試験のあるたんびに下落して」(同)、終に落第も経験している (p.9)。 しかし落第をきっかけにして熱心に勉強したところ、 「前には出来なかつた数学なども非常に出来る様になつて、 一日親睦会の席上で誰は何科へ行くだらう誰は何科へ行くだらうと投票をした時に、僕は理科へ行く者として投票された位であつた」(「落第」)という。

英作文 My Friends in the School

エイサクブン My Friends in the school

3つの部分から成る英作文。 第2部、第3部の末尾には、それぞれ1889年5月24日、同年6月15日の日付が付されている。 第1部では「『アヒル』というあだ名のついた頑健で屈強」 の友人、 第2部では「顔はまるで、子どものように純朴で、 心は哲学者のように成熟してい」 (「漱石全集」 第26巻) る友人について述べられている。 第3部では、夢にカーライルが現れ、 漱石に 「ぼくを真似すること」は危険だと忠告する。 漱石は 「偉人の作品を読み、 偉人の卓見に同感し、偉人の才能を畏敬する者は、 偉人の友なのではあるまいか。 ならばカーライルこそわが友、 カーライルこそわがヒーローだ」(同)と記している。漱石は英国留学中にカーライル博物館を訪れ、後に短編「カーライル博物館」を書いた。

松山熊本時代

明治28年(1895)4月、漱石は、友人菅虎雄の斡旋で、愛媛県尋常中学校へ英語の教師として赴任した。漱石の俸給は校長よりも高く、月額80円という破格の待遇だった。松山はのちに『坊っちやん』の舞台となる。

購入予定の英書リスト(五高在職時代)

コウニュウヨテイノエイショリスト(ゴコウザイショクジダイ)

「第五高等学校試験問題用紙」に記された購入予定図書リスト。“Bell”, “Macmillan”, “Clarendon” など出版社別に、 75点
の図書の著者、タイトル、価格が記されており、 その多くが 「漱石文庫」 に所蔵されている。

明治31年第五高等学校大学豫科入学試験 英語科問題 1898

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試験官が読み上げた問題を書き取る、「聞き取りの問題」(問題I,II)があるなど、多様な問題が出題されている。「漱石文庫」には、他にも、漱石自身が作成した試験問題が多数おさめられている。

英国留学時代

明治33年(1900)5月、漱石は第五高等学校在任中に、文部省から2年間の英国留学の命令を受け、ロンドンへと渡った。当時の英国は物価が高く、資金不足だったこともあり、後に漱石は「尤も不愉快の二年」(『文学論』)と述べている。

自筆イギリス地図

ジヒツイギリスチズ

大ブリテン島「全体図」とスコットランドを拡大した「地域図」は、鉛筆書きの地図に、地名をペン書きしている。漱石が教科書地図などから写したものと推測される。ロンドンを殆ど離れなかった留学中で、ほぼ唯一の例外が、明治35年(1902)10月頃のスコットランドのPitlochry訪問であった。

大要(文芸と人生)

タイヨウ(ブンゲイトジンセイ)

英国留学中の断片。著者執筆のための構想メモである。「(1)世界ヲ如何ニ観ルベキ」、「(2)人生ト世界トノ関係ハ如何。人生ハ世界ト関係ナキカ。関係アルカ。関係アラバ其関係如何」など、16項目が立てられている。明治35年(1902)3月15日付中根重一宛書簡では、「私も当地着後(昨年八九月頃より)一著述思ひ立ち目下日夜読書とノートをとると自己の考を少し宛かくのとを商売に致候」とある。 

東西文学ノ違. 〔詩ト散文ノ比較〕. 〔Representation〕

トウザイブンガクノイ. 〔シトサンブンノヒカク〕. 〔Representation〕

「蝿の頭」ほどの文字で書かれた英国留学中の断片。”Drama", "Nature", "Poetry"の3つの分野について、東洋と西洋の文学に表れた価値観の相違を述べたもの。「西洋人ハアク迄モ出[世]間的デアル(中略)極限スレバ浮世トカ俗社界ヲ超越スルコト能ハザルナリ」、それに対し「吾人ノ詩ハ悠然見南山デ尽キテ居ル。出世間的デアル」などとある。

滞英日記 明治34年1月1日~11月13日

タイエイニッキ メイジ34ネン1ガツ1ニチ~11ガツ13ニチ

明治34年(1901) 日記。 漱石は、2月にヴィクトリア女王の葬儀を見物し、8月にはカーライル博物館を訪れている。 化学者の池田菊苗と、 「英文学ノ話」、「世界観ノ話」、「禅学上ノ話」、「哲学上ノ話」、「教育上ノ談話」、 「支那文学」、 「理想美人」 など、 様々な話題について語り合い、 池田との議論が漱石の文学研究にとって大きな刺激となったこと、 ほぼ毎週火曜日にクレイグ先生宅へ行き個人授業を受けていたこと、頻繁に古本屋に通い古書を購入していたことなどが記されている。 漱石は、 この年の夏頃から下宿の自室に閉じこもり著作のための資料の収集・抜粋、 思索などに精力を傾けた。写真は1月22日の記述で、 「ほとゝぎす届く子規尚生きてあり」 とある。 英国の漱石へは高浜虚子の配慮により、 『ホトトギス』 が送られており、 漱石は子規の病状について 『ホトトギス」の消息欄を通じて知っていた。

作品

漱石は明治36年(1903)1月に帰国した。同年4月、第一高等学校英語嘱託、東京帝国大学文科大学講師に就任し、東京帝国大学では、「英文学概説」などを講義した。語学に厳しく理論的で緻密な漱石の授業は、当初生徒たちからは不人気であり、その影響もあってか精神的に不安定な状態が続いた。そうした状況の中、『ホトトギス』を経営していた 高浜虚子 は、漱石に小説を書くようにすすめる。そして漱石は、明治38年(1905年)38歳のとき 「吾輩は猫である」を執筆し発表する。その後 「倫敦塔」、「カーライル博物館」、「幻影の盾」、「琴のそら音」、「一夜」、「薤露行」、「坊っちやん」、「草枕」などを相次いで発表し、作家としての地位を確立していった。

原稿『吾輩は猫である』序文 明治38年9月

ゲンコウ「ワガハイハネコデアル」ジョブン メイジ38ネン9ガツ

1904(明治37)11月末から12月初めにかけて、神経衰弱に悩む漱石は、高浜虚子(きょし)の勧めで小説を執筆し、38歳の時に『吾輩は猫である』を発表した。当初は1話読み切りの予定だったが、反響が大きかったため、その後10回(第11章)まで連載された。掲載した『ホトトギス』は大幅に発行部数を伸ばし好評を得た。その年の10月に単行本上編が大倉書店・服部書店から出版されると、初版はわずか20日ほどで売りつくしたという。

原稿『道草』

ゲンコウ「ミチクサ」

漱石晩年の作品『道草』の反古(ほご)原稿。全102回連載の内、当館が所蔵する草稿15枚は、第33回と第39回分の一部である。 漱石の伝記的な要素が強い作品と評され、 家族や親族との不和や葛藤が描かれる。 飛び散ったインクの跡は、原稿に向かう漱石の姿を種々に想像させる。

『明暗』覚書き

「メイアン」オボエガキ

『明暗』は、大正5年(1916)5月から12月まで東京・大阪『朝日新聞』に連載されたが、漱石の死により188回で途絶した。 「津田由雄」と妻 「のぶ (延)」、津田の妹「堀秀」、 津田の叔父 「藤井」 とその妻 「朝」、 お延の叔父 「岡本」とその妻「住」、 津田の上司である 「吉川」 夫妻などの名前が見える。 『明暗』 は、 津田が、 吉川夫人の計らいにより、温泉旅館に宿泊中のかつての恋人・清子と再会する場面で終わっている。