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貴重資料室
< 展示概要 >
医学分館では、2002 年に医学分館ウェブサイト内の「貴重資料室」にて、資料10点の全文画像を公開しました。
本展示は、これらの資料を「医学分館デジタルライブラリー」の「電子展示」として再構成したものです。
(2025.4.25)
■■ 展示リスト ■■
▼解剖書
1.
解屍編
2.
解体新書
3.
解体発蒙
4.
因液発備
5.
存真図腋
▼仙台藩医史関係
6.
木村寿禎解剖供養碑
7.
仙台医学校蔵書目録
8.
大槻玄澤書簡
9.
五大家医論
▼病草紙
10.
新撰病草子
※サムネイル画像、青色のタイトルをクリックすると、目録データや画像(全ページ)をご覧いただけます。
解剖書
解屍編
カイシヘン
1
解屍編
河口信任 著 明和9年(1772) 写本 1冊
明和7年(1770年)4月25日、京都の刑場で行われた解剖の記録。「蔵志」についでわが国で2番目に出版された解剖書である。解剖には河口信任らが執刀し、信任の師荻野元凱をはじめ同門の者と9名で臨んだ。
この解剖は河口信任と「解屍編(かいしへん)」に名を載せることを拒否した原田維祺の二人が相談して、そのときの 京都所司代古河藩主土井利里に許可を願い出て実現した。
河口信任は古河藩医であり、祖父の代から紅毛外科医として土井侯に仕えていたが、原田は長崎の人で吉雄耕牛、栗崎道意など当代一流の紅毛外科医について学んでいた。いずれもメスの使い方の覚えがある身、山脇東洋ら漢方の古方派の人々と違って、屠者に替わって自ら執刀した。それだけに「蔵志」より詳しい。
本文では解剖の所見に対する荻野元凱の意見が随所にみられ、五臓六腑の誤りを指摘し、暗に「蔵志」の内容を批判しているが、膀胱之図の膀胱の頂部の「脂有リ、大小分カルル間ニ附着ス」と、旧来の五臓六腑説の小腸と大腸の境で膀胱に接し、水分が膀胱に流入して尿となる説を認めるなど五臓六腑説にとらわれていることも少なくない。
なお、「解屍編」の原稿ができる前に、原田維祺がこのときの解剖をもちに「臓腑図志」を書き上げていた。
(図録日本医事文化史料集成 第2巻より)
当館所蔵本は、京都大学所蔵本を書写したもの。
▲展示リスト
解體新書 [序図]
カイタイ シンショ
2
解体新書
杉田玄白 訳著 安永3年(1774)刊
ドイツ人医師クレムスの「解剖図譜」のオランダ語訳「ターヘルアナトミア」を翻訳した医学書で、安永3年(1774年)に出版された。この出版は単に医学にとどまらず、文化史上においても画期的な出来事であった。これによって蘭学が始まったがその事情は杉田玄白(1733-1817)の「蘭学事始」に詳しい。
翻訳には前野良沢(1723-1803)が中心になり、杉田玄白、中川淳庵(1739-1786)、桂川甫周(1751-1809)ら数人が参加したが、解体新書に前野良沢の名前が無い。本書は本文が四冊、序文・凡例・付図で一冊の合計五冊からなる。付図は秋田藩士小田野直武(1749-1780)が描いた。
小田野は秋田藩角館の人で安永2年(1773年)に秋田に来た平賀源内から初めて洋画の手ほどきを受け、数ヶ月後に上京した。このとき杉田玄白から解体新書の付図の制作を頼まれた。小田野は洋画史においても秋田蘭画の開拓者の一人として名をとどめている。
(図録日本医事文化史料集成 第2巻より)
▲展示リスト
解體發蒙(4巻附録1巻・5冊)*
カイタイ ハツモウ
3
解体発蒙
三谷公器 著 文化10年(1813)刊
18世紀から19世紀にかけて、人体の構造の知識が急速に普及していくなかで、古来から五臓六腑、陰陽五行説を是とする漢方医たちのなかに、新しい解剖知識を肯定して、解剖所見に五臓六腑説を牽強付会
*
した漢蘭折衷派が生じた。その代表的著作が三谷公器(1755-1823)の「解体発蒙(かいたいはつもう)」である。
享和2年(1802年)京都で荻野元凱(1737-1823)の門人らが行った解剖に三谷も参加し、そのときに得た所見に基づいて「解体発蒙」を著した。この書の解剖図は多色刷り木版印刷で、その見事さは医書のなかで際だっている。
三谷は近江の人、名は樸、字は公器、号が笙州。京都に住み、小野蘭山の弟子で本草に詳しく、鳥獣の解剖もたびたび行った。
(図録日本医事文化史料集成 第2巻より)
*牽強付会(けんきょう-ふかい): 自分の都合の良いように強引に理屈をこじつけること。
(大辞林 第二版より)
▲展示リスト
因液發備 上篇
インエキ ハツビ
4
因液発備
吉雄永章(耕牛) 述 ; 百百海鵬洋椿 編
江戸時代中期-後期のオランダ通詞・漢方医。代々オランダ通詞で、寛延元年大通詞にすすむ。またオランダ商館付医師から外科医学を学び、 吉雄流外科といわれる一派をおこす。前野良沢、杉田玄白らを指導し、「解体新書」に序文をよせた。
寛政12年死去。77歳。備前長崎出身。名は永章。通称は幸左衝門、幸作。訳書に「因液發備」など。
(講談社 日本人名大辞典より)
▲展示リスト
存眞圖腋
ソンシン ズエキ
5
存真図腋
佐々木中沢 著 文政5年(1822) 写本 1冊
文政5年(1822年)3月、仙台藩医学校外科教授として着任した佐々木中沢(1790-1846)は同年6月29日女囚を解剖し、医学校学頭 渡部道可の序文と内科教授渋谷順庵の跋文を得て、同年7月「存眞圖腋醫」一巻を著した。
中沢は江戸から大槻玄沢、桂川甫賢に従学、南小柿寧一の「解剖存真図」(1819年)の跋文を書いたが、そのなかで色彩の明備を 欠いている婦人生殖器の解剖所見を明確にしようと企てたもので、6枚の彩色図は畠山仙江と大槻江陰の手になり、参照した訳説は 医学校蔵書のウランカール解剖書と「医範提綱」である。
この解剖にあたり子宮と膀胱の関係が蘭書の図譜とやや異なることを発見し、また卵巣の一つを煮て部開した。陰唇の訳名は中沢の造語である。
(図録日本医事文化史料集成 第2巻より)
▲展示リスト
仙台藩医史関係
木村壽禎解剖供養碑拓本
キムラジュテイ カイボウクヨウヒ タクホン
6
木村寿禎解剖供養碑 一幅
拓本 掛軸
寛政10年12月19日、仙台藩医木村壽禎が七北田刑場で行った解剖の供養碑の拓本。この供養碑は、明治9年道路改修の際 発見された。長与専斎は我が国解剖史上の名品と賞賛したが、碑石はその後洪水のため失われた。
木村壽禎は長崎に遊学し、大通誦楢林重兵衛に師事して和蘭語や和蘭医学を修めた。仙台に帰った後、解剖を行ったため穢しいことをしたと誹謗中傷を浴び、優れた解剖技術があったにも拘わらず、側近従医にはなれなかった。
全国に先駆けて西洋医学科を開設し、官許を得て人体解剖に学校の総力を挙げた仙台藩医学校が創設される17年前のことである。
なお、供養碑の模刻が仙台市荒町の佛眼寺本堂にある。
▲展示リスト
仙臺醫學校蔵書目録
センダイ イガッコウ ゾウショモクロク
7
仙台医学校蔵書目録
写本 1冊
仙台藩医学校は渡部道可の建議により、文化12年に創設された諸藩中最古の医学校。我が国で最初に西洋医学科を設置し、 正規に医学を教授した。東北大学医学部の前身。
本目録記載の図書は 45函 162部 2571冊で、当時1部が数十金といわれる蘭書6点、唐本十数点、「九部経解」など渡部道可が 西国遊学中の写本を含む。30部余りを除けば、全て和漢洋の医学書である。
蔵書中の「厚生新編」は、ショメール(Chomel)の「Agronome francaise dictionaire economique」を文化8年から幕府天文台に おいて翻訳中、訳員であった大槻玄澤が密かに写しを仙台藩医学校におくったものである。
▲展示リスト
大槻玄澤書簡(佐々木中澤宛)
オオツキゲンタク ショカン (ササキチュウタク アテ)
8
大槻玄澤書簡 (佐々木中沢宛て)
大槻玄澤 筆 文政5年(1822)9月11日 書簡 1巻
幕府天文台訳員で仙台藩医である大槻玄澤が、弟子の仙台藩医学校外科助教 佐々木中澤宛に送った書簡。
主な内容は、幕府に内密で医学館に送ってもらった「厚生新編」に従って葡萄酒醸造を計画した、との中澤の報告に対し、
1) 別の文献を医学館学頭宛に送ったので参照してはどうか。 2) 葡萄はかなり大量に必要であること。 3) 仙台のどの地方で 栽培させたかのかを知りたい。 4) 「厚生新編」の翻訳を送ったことについて内密にしてほしい。
と述べたものである。
仙台藩医学校が大槻玄澤を通じ、江戸表などの情報を随時入手していたことを証明する一例である。
▲展示リスト
五大家醫論
ゴタイカ イロン
9
五大家医論
渡部道一 編 文政6年(1823) 写本 1冊
文政5年に行われた仙台藩医学校の人体解剖では、渡部道可(1772-1824)が総指揮、助教佐々木仲澤が「存真図腋」として公式記録をまとめ、道可が序文をよせている。
道可は、その序文の中で 「人体解剖は中国で始まり西洋に伝わった。その後中国では陰陽五行説のため廃れた。したがって、解剖学が西洋から伝わったからと いって、これを排斥してはいけない。」 との説を述べている。
これが河野杏庵(後三代学頭)など漢方医の反感を買い、多紀元堅や松崎復明などまでを巻き込む論戦となった。
本書は、道可から六代目にあたる渡部道甫(1826-1869)が、先祖の説に対する反論をとりまとめたものである。
▲展示リスト
病草紙
新撰病草子
シンセン ヤマイ ノ ソウシ
10
新撰病草子
大膳亮好庵(道敦) 撰、稲垣正信 書、福崎一實 筆 模写本
平安・鎌倉期に描かれた「疾の草紙」にならって江戸時代に作られた病草紙。嘉永3年(1850)、江戸の大膳亮好庵(道敦)が折ふしに書きとどめてきた奇病・異常のうち十六種 を選び一巻としたもの。 詞書は稲垣正信が書き、画は福崎一宝の作である。
(図録日本医事文化史料集成 第1巻より)
▲展示リスト