解説
慶長七年(1602)に全国的に大名の配置替えが行われた。秋田には7月27日に佐竹義宣が移された。秋田からは、佐竹氏と交代に諸将が常陸へ移された。秋田氏は宍戸へ、戸沢氏は松岡へ、六郷氏は府中へ、本堂氏は志筑へ、仁賀保氏は武田へと移った。小野寺氏は、秋田の諸将の中でただ一人、改易(領地没収)となった。<BR> その中で、秋田氏が宍戸に転封になった正式な領知状は残されていない。ここにあげたのは、佐竹氏移封から3ヶ月もたった11月に出された領知状である。発給者の筆頭伊那忠次は、天正十八年家康が関東に入った時に直轄領の設定と知行地の割り当てを行った。その時の総奉行は榊原康政で、補佐役が伊那忠次(1550-1610)であった。その時以来、伊那は関東郡代となり、代々その地位を襲封した。このように伊那は一貫して新田開発などに努め、彼の行った検地は"備前検地"として有名になった。いわばそうした実務官僚からの領知状であるところに特色があろう。実季の五万石からみても、そのような小領主の知行地の配分は、このような実務官僚に任せられたものと思われる。また関東を統括する伊那からの領知宛行状は、家康直轄地からの分割給与という形を取り、決して佐竹氏との交代でないことを示している。